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名曲アルバム または、未来のために恋とダンスと悲しみを [レビュー]

年が明けちゃったんだけど、去年からの持ち越しということで、2016年の名曲を選びました。憂鬱な時代だけど、いや、だからこそというべきか、恋やダンスを讃える歌に惹かれた。難しいことじゃないよ。ほうら、やってごらんよと恋ダンス。または、悲しみを空に解き放つように妄想の絵筆を握る。そうしたすべてが未来へ向かう人へのエールに思える年だった。<●曲名/アーティスト名『収録アルバム』>で表記しています。例によって、曲の並びは順位ではなく1枚のアルバムとしての曲順と考えてください。

●恋/星野源「恋」
ドラマは見てないんだけど、今年を象徴する1曲といえばこれじゃないかな。♩営みの~と始まる恋の歌。でも、普通のラブソングじゃないよね。夫婦でも夫婦じゃなくても、二人でも一人でも、営みを重ねることで自ら未来を切り開いて行こうとする人への、軽やかなエール。
●琥珀色の街、上海蟹の朝/くるり「琥珀色の街、上海蟹の朝」
くるりはストリートで果敢に戦う「君」に、「俺は君の味方だ」と語りかける。それは東京の「君」であり、上海の「君」であり、ひょっとしたらストリートに出られずにネットを覗いている「君」かもしれない。これもまた、ひとつのエール。
●セツナ/サニーデイ・サービス『Dance To You』
90年代が今でも続いてたら…。サニーデイのアルバムはそんなことを感じさせる。もちろん、それは刹那の幻なんだけど、その刹那をどこまでもどこまでも引き延ばす。例えば、永遠と瞬間が交錯する、あの甘美な夏の夕暮れのように。
●明るい未来/never young beach『fam fam』
サニーデイの90年代は、例えばこんなバンドにつながっているのかもしれない。もちろん未来は暗いんだけど、それは彼らのせいじゃない。だから、知ったことかとばかりに明るい未来を歌うんだよ。ペナペナのギターに込められた希望。
●100%未来/Enjoy Music Club feat. 三浦直之(ロロ)「100%未来」
「サタデーナイトはゴッドタン」というキラーフレーズが飛び出す、フリーダウンロード曲。くだらないバラエティ番組を笑って見られる喜び。もちろん未来は暗いんだけど、ポップカルチャーがあれば大丈夫。そんなポップカルチャー賛歌。
●Without You/かえる目『切符』
君がいなくっちゃ、っていうときの「君」とは鬼のこと。冗談みたいな歌だけど、良きことだけの人生は退屈だし、鬼がいない桃太郎はお話にならない。何でもひと色に染めたがる社会から、大胆にはみ出すファンクのリズム。
●ディスコって/坂本慎太郎『できれば愛を』
みんな好きな音楽で好きなように踊ればいい。そんなダンスの民主主義。ヘテロもゲイも生者も死者も、ミラーボールの下でゆるやかに連帯しながら一夜を過ごす。そして、こうあるべきという抑圧から、軽やかに逃れていくんだよ。
●叩かない戦い/在日ファンク『レインボー』
叩かない戦いとは、タメのリズムだ。軍隊マーチに踊らされるより、自分のビートで踊りたいから。見えないビートを次につなげるのが、粘り腰のファンク。そして、はぐらかしのユーモア。在日ファンクの名にふさわしい、「非戦」のアンセム。
●UFO/入江陽『SF』
新しい恋、知らない音楽、もしくはUFO。日常が見慣れないものに変わりエロスに包まれる、そんな未知との遭遇にドキドキしたい。「♩ゆうふぉおが〜」のサビの部分で、UFOのようにふわーっと舞い上がるボーカルの気持ちよさよ。
●女はつらいよ/二階堂和美 with Gentle Forest Jazz Band『GOTTA-NI』
かつての曲をビッグバンドでお色直し。演歌調のメロディーに、スタンダードのような普遍性が宿り、より遠いところの「あの子」まで運ばれていく。ニカさんのボーカルと伴走するようなホーンが、あふれる想いに形を与える。
●ロープウェー/cero「街の報せ」
未来は濃い霧に包まれているかのように不透明で、途方に暮れることばかりだけど、それでも美しいものを見つけることはできる。ゴンドラがガッタンと揺れるように、「人生」という言葉にアクセントが置かれ、そのコーナーを曲がろうとする人へエールを送る。
●悲しくてやりきれない/コトリンゴ『「この世界の片隅に」 オリジナルサウンドトラック』
最後は映画の主題歌。捉えどころのない悲しさ、根源的な悲しさを抱えているから、人は歌うんだし、絵を描いたり、踊ったり、お喋りしたりする。するするとほどけていくストリングスが、悲しみを解放したんぽぽの綿毛のように遠くへ運んでいく。世界の至るところにある「片隅」で暮らす人々の歌。

オマケの1ダース。ベテラン勢が多め。
●遊ぼう、空で。/あがた森魚『近代ロック』
●ミュータント集団就職(突然変異でこの世は一回り)/No Lie-Sense『Japan's Period』
●わたしが鳴こうホトトギス/戸川純 with Vampillia『わたしが鳴こうホトトギス』
●告白/ASA-CHANG & 巡礼『まほう』
●gone/あらかじめ決められた恋人たちへ feat. 曽我部恵一『After dance / Before sunrise』
●異邦人/EGO-WRAPPIN’『ROUTE 20 HIT THE ROAD』
●72億人分のあの人(もう74億人だね ver.)/中村佳穂『リピー塔がたつ』
●ドキメキニシス/スチャダラパー『あにしんぼう』
●N.O./ハンバートハンバート『FOLK』
●静かな夜がいい/スカート「静かな夜がいい」
●E.B.I./Carnation『Multimodal Sentiment』
●人々の傘(People Umbrellas)/Yumbo『鬼火』

2016年振り返り [レビュー]

ああ、もう30日か。もっと映画の感想とかも書ければよかったんだけど、時間的に無理。なので、2016年を振り返っちゃうことにする。
ベスト5で、次点を加えるとだいたい10くらいになるような感じでまとめました。

【映画】
1『キャロル』トッド・ヘインズ監督
見つめたい、触りたい、一緒にいたい。そんな、恋するときの疼きのようなものが描かれていて、そこにやられてしまった。クラシカルな構図と徹底的にコントロールされた色彩が、ここぞというときに降る雪とロマンティックな音楽が、映画の世界をお伽話に変える。こうだったらいいのにな。その狂おしい願いもまた、ひとつの疼きであり。
2『この世界の片隅に』片渕須直監督
徹底的な時代考証と繊細なアニメーションとチャーミングな声で、あの時代の暮らしを再現。「何でも使うて暮らし続けるのがうちらの戦いですけえ」ってなんとか守ろうとした日常も、戦時下にはいとも簡単に奪われてしまう。夕餉の煙や街の灯りなど、日々の営みのかけがえのなさに胸が締めつけられる。
3『SHARING』篠崎誠監督
東日本大震災以降の日本を描いた映画。あの日からずっと悪夢が続いているような気がする。どこまでが夢でどこからが現実なのか、誰が幽霊で誰が生者なのか。不穏な気配に充ち満ちた、大学のキャンパスが素晴らしい。
4『ヒメアノ~ル』吉田恵輔監督
バイオレントな傑作が立て続けに公開された邦画界。中でも、一番えぐられたのがこれ。何でこんなことになっちゃったんだろう、どこで間違えちゃったんだろう。そんな気持ちにさせられるラストの仕掛けは、ずどーんときた。
5『ヤクザと憲法』圡方宏史監督
東海テレビ発のドキュメンタリー。老人とひきこもり風の若者で構成される組事務所にカメラが潜入。そのパッとしない日常の可笑しさと悲しさ。そこから、日本社会の不寛容さが浮かび上がる。
次点は、タランティーノの『ヘイトフル・エイト』、ゼメキスの『ザ・ウォーク』、ディズニーの『ズートピア』、ブラジルのアニメーション『父を探して』、そしてついこの間観てきたホラー映画『ドント・ブリーズ』。こうして振り返ってみると、今年は邦画とアニメーションの年だったなと思う。
あと、リバイバル上映でようやく観られたクストリッツァの『ジプシーのとき』もよかった。もちろん、ノルシュテインのリマスターも。DVDやBlu-rayで観た作品では、1964年の日本映画『君も出世ができる』と、ジョー・ダンテの『マチネー』

【マンガ】
1『盆の国』スケラッコ
夏休みのきらめき、あの世とこの世の近しさ、盆踊りの祝祭性と、俺の好きなものがたっぷり詰まった作品。何よりも、人と人ならざる者、此岸と彼岸を描き分ける画力にほれぼれする。終盤には、様々なタッチの線が入り乱れ、あの世とこの世が入り混じる。そして最後に訪れる盆踊りは、フェリーニのような大団円。
2『ヨルとネル』施川ユウキ
こびとの男の子ふたりの逃避行。読み進むにつれてハードな設定が明らかになっていくんだけど、基本は男の子同士でキャッキャとふざけてるのがいい。彼らの目から見れば、世界は遊び場であると同時に戦場でもある。そして、そこにふいに浮かび上がる詩情。
3『SUNAO SUNAO』100% ORANGE
ここにも、世界を妄想で塗りつぶし遊び場に変える少年が。退屈なんてありえない。というか、退屈であることも遊びの一部だ。今年出た4巻で、まさかの完結。最後の最後にひとり遊びの恍惚と孤独を描き出す、究極のひとり遊びマンガ。
4『FANTASTIC WORLD』ひらのりょう
まだ連鎖中。ぶっ壊れてしまった世界を旅する、少年と歯のキャラクター。想像力を解放したような冒険物語が、そのまんまマンガとしての冒険になっているような作品。しかも、背景にポリティカルな問題が隠されている。
5『ノドの迷路』逆柱いみり
ヘンテコな世界をうろつく観光マンガ。ぐねぐねとした階段や謎の通路が、思わぬ場所につながっている面白さ。お話はあるけど、ひとまずどうでもよし。妙な建物やおかしな店や怪しげな人を眺めて、きゃっきゃと喜ぶだけで楽しい。
なんか日常のなかの冒険、もしくは冒険のなかの日常、ってな感じの作品ばかりがベスト5に並んじゃった。次点は、今年完結した横山旬『変身!』唐沢なをき『マンガ家総進撃』、1巻を読んで度肝を抜かれた古谷実『ゲレクシス』、去年も選んだ連載中の2作、近藤聡乃『A子さんの恋人』山田参助『あれよ星屑』
あと再読ものでは、ゆっくりじっくり読み返し、萩尾望都『ポーの一族』に耽溺。あと、本の雑誌の連載を1冊にまとめた『吉野朔実は本が好き』も。

【本】
1『死んでいない者』滝口悠生
お通夜に集まった親類縁者たちの視点をゆらゆら移動しながら、ざわざわした場の雰囲気や浮かんでは消える思いをシームレスに描写していく。それどころか、時に、誰のものでもない視点になったりもする。この不定形の語りが、読んでいてとても心地よかった。さほど長くない中編サイズの小説だけど、世界のすべてがそこに折り畳まれているような感覚。
2『歩道橋の魔術師』呉明益
台湾の「中華商場」という商店街を舞台にした連作短編集。歩道橋につながれた商店街、という舞台が素晴らしくて、その描写を読んでいるだけでノスタルジックな気分になる。主人公となるのは子供たち。小さな彼らの小さなマジックリアリズムが、愛おしい。または、小説というジオラマ。
3『大きな鳥にさらわれないよう』川上弘美
読み進めていくうちに徐々にわかってくるんだけど、滅びゆく人類を描いたディストピアSF。人類ならざる者の視点から、人間とは、社会とは、自由とは、恋愛や食事や争いとはと静かなタッチで問い直す。そして、遥か未来から、か弱い人類を懐かしく思い出す。
4『ワイルドフラワーの見えない一年』松田青子
50編のとっても短いお話を並べた短編集。俺らがなんとなく当たり前だと思ってスルーしていることを、実験と奇想と笑いでサクサク捌いていく解体ショー。目にとまらない名もなき花とか言ってんじゃねーよ、お前が見てないだけだろ、ってな批評性。
5『日本昭和ラブホテル大全』金益見/村上賢司
今や失われつつある、内装や外観に凝りまくったラブホテルを写真と文で紹介。いかがわしい創意工夫の数々にやられてしまう。どのホテルも行ってみたい。
んー、日本の小説はそれなりに読んだけど、海外文学があんまり読めなかったな。あと、人文系の本も読めなかった。次点は、読書芸人で光浦さんも紹介してた木下古栗『グローバライズ』、映画妄想小説スティーヴ・エリクソン『ゼロヴィル』、グラフィックノベルの傑作リチャード・マグワイア『HERE ヒア』、短歌アンソロジー山田航『桜前線開架宣言』、ビジュアル本2冊『手塚治虫表紙絵集』『萩尾望都 SFアートワークス』

【CD】順位なし
●『できれば愛を』坂本慎太郎
●『GOTTA-NI』二階堂和美 with Gentle Forest Jazz Band
●『切符』かえる目
●『SF』入江陽
●『レインボー』在日ファンク
音楽は名曲アルバムをまとめる予定なのでさらっと5枚。順位なしだけど、いずれもユーモアが大きなポイントになってる作品だと思う。それは、批評性ってことでもある。次点は、あがた森魚『近代ロック』No Lie-Sense『Japan's Period』Carnation『Multimodal Sentiment』サニーデイサービス『Dance To You』ASA-CHANG & 巡礼『まほう』。番外で、リイシュー盤のタイマーズ

ということで、以上です。

彼もB組我もB組 [レビュー]

♩イケてる君らがA組ならば 我らは万年B組だ
 今日も明日もパッとしない おそらくしばらくパッとしない
 そのくせ夢なら果てしない 心配するな問題ない
   「万年B組ヒムケン先生」校歌より

テレビ番組私的ベスト、2013年が『YOUは何しに日本へ?』、2014年が『家、ついて行ってイイですか?』、2015年が『山田孝之の東京都北区赤羽』ってな感じなんだけど、今年は何つっても『万年B組ヒムケン先生』だ。バナナマンの日村さんを中心に、バイきんぐ小峠、三四郎小宮が教師となって、冴えないタイプの若者、いわゆる「B組」を応援するというバラエティ番組。たぶん、今年一番笑った番組だと思う。この間、友人宅で一気に10回分くらいまとめて見返したんだけど、あまりの濃さに「ちょっと休憩しよ」となるくらい。
つうことで、「ヒムケン先生」名場面ベスト5を選んでみた。

5位 漫画家志望の中田くん
大学の漫画サークル仲間と集まる中田くん。プロレス技の研究とかしてぐだぐだしてるところに、後輩の女子が登場。その途端、あからさまにしどろもどろになって、小宮先生に「(彼女のこと)気になってるよね?」とそっこーバレる場面。
本人はバレてないと思ってるんだけど、端から見たら明らかに挙動不審になってる。B組は冴えないからね、基本、モテないわけよ。でも、冴えないからこその「純情」がふいにあふれ出す場面があって、その甘酸っぱさにグッときてしまう。イケてる君らの恋愛はどーでもいいが、B組の恋愛は応援したくなる。

4位 ヨーヨープレイヤーの滝本くん
それなりに年がいってそうだけど年齢不詳無職の滝本くん。「恥ずかしくない程度には歌える」と言いながら、歌にうっすら自信をのぞかせる滝本くん。カラオケで十八番の洋楽のバラードを入れ、「暗闇の中を~」といきなり自作の詞をつけて朗々と歌い出す場面。
元歌すら知らないのに、勝手に日本語詞をつけられても…。しかも、訳してるわけじゃないっぽいところが、また扱いに困る。突然、想定外のことをし出すのがB組の大きな特徴。本人としてはサービス精神のつもりかもしれないけど、「空気を読む」とか「一般に自分を合わせる」ってのができないタイプなんだろう。でもね、空気ってホントに読まなきゃいけないの? そう思わせてくれるのが、B組のいいところ。

3位 マジシャン志望のくりりんくん
カメラの前でマジックが上手くできないことに癇癪を起こしつつも、徹夜で練習。その成果を見せるためマジックを披露し、なんとか無事終えたところで、何の前触れもなく「アンジェリーナ高崎でした」とこれまでとは別人の名前を名乗る場面。
これも、「いきなり想定外」パターン。どっから出てきたのよ、その名前。つか、くりりんくんは男子だけど、アンジェリーナって女性の名前でしょ。どういうつもりかまったくわからないし、特に説明もされない。でも、なんだかややこしいキャラクターだということは伝わってくる。A組みたいにスマートにできないけど、B組の抱えるこのややこしさが可笑しくって愛おしい。

2位 世を忍ぶ仮の姿で会社員をしながら、DEATH BANDというバンドでギターを担当するDEATHユウタ
別次元から来たメンバーでバンドが構成されていると語る自称10万30歳のDEATHユウタが、会話の中で「筑波山」というワードを出したため、小峠先生に「お前、茨城出身だろ。尻尾出しやがったな」と突っ込まれる場面。
DEATH BANDのやっかいなところは、設定が凝りすぎていること。妹が憑依するボーカルとか、生後3カ月と言い張るメンバーがいるとか、バンドのパートに幽霊があるとか、そもそも別次元のNIPPON国から来たとか、いちいち呑み込みづらい。しかも、これだけ複雑な設定を作っておきながら、どこかぬーぼーとしたDEATHユウタの佇まいがそれをことごとく裏切っているところ。小峠のツッコミでは、「ごめんね。一回だけ、一回だけ言わせてよ。何やってんだよっ!」というのも最高。

1位 エア野球で練習しながらプロ野球選手を目指すケブくん
エアじゃなくて実際の練習を重ねてきたところで、プロを目指すなら「野球チームに入ろう」と日村先生が提案。すると、ケブくんが「怒られるのが怖い」とまさかの拒否。困った日村先生が「じゃあ、すげーケブのことをほめてくれるチームを探すよ」と答える場面。
この番組の最良の部分が出た場面だと思う。エア野球、手作りのボールやユニフォーム、メイド喫茶に通ってるなど、ケブくんにはいろいろとおかしなところがあるんだよ。でも、日村さんはそれを否定しない。バカにして突っ込んだりもしない。とにかく、ケブくんの言い分に乗っかるんだよね。バナナマンというコンビにそういうところが多分にあるんだけど、特に日村さんの場合は基本的に「肯定の笑い」なんだよ。これ、一億総ツッコミ社会となっちゃった今の日本では、非常に希有な存在だと思う。そもそもケブくんは17歳なのに一人暮らしで働いていて、その背景には複雑な事情がほの見える。例えば「怒られるのが怖い」ってセリフからも。番組ではそれを掘り下げることはないし、掘り下げなくてもいいと思うんだけど、日村さんはそうした諸々も受け止めた上で、肯定しているんじゃないかと思う。そりゃあケブくんは調子に乗ってたり虫がよかったりするところもあるよ。あるけど、それでも「ほめてくれるチームを探す」って言っちゃう日村さんに、グッときた。

ヒムケン先生のセットには、金八先生の「彼も人なり我も人なり」をもじった「彼もB組我もB組」という言葉が掲げられている。そういうことなんだと思う。たとえ冴えなくっても、たとえ周りとズレていても、たとえややこしいものを抱えていても、俺らは好きなことに夢中になっていいし、そのことは肯定されるべきだと。この番組が始まった当初はこんなことになるとは思ってなかったけど、めちゃくちゃ笑って、んでときどきジーンときちゃう。
だからさ、みんなで先生のあとに続いて唱えよう。彼もB組我もB組。

時を超える一族 [レビュー]

今年のマンガの一番の話題といえば、萩尾望都の『ポーの一族』の最新作が発表されたこと。あと、5月に吉祥寺でやってた「萩尾望都SF原画展」ね。この原画がため息が出るほどきれいで、眼福としか言いようがない。そんなわけで、今年は萩尾望都を再読しまくった。

とにもかくにも、『ポーの一族』だ。知らない若者のために説明すると、ポーの一族ってのはバンパネラと呼ばれる吸血鬼で、不老不死なのよ。その遍歴を描いたのがこのシリーズなわけ。だもんで、時間軸が錯綜し、いろんな時代を行き来する構成になってる。しかもややこしいことに、単行本によって各話の順番が微妙に入れ替わったりしてるんだよね。で、再読する際に決めたのは雑誌の掲載順に読むこと。何でかっつうと、連載時にリアルタイムでこの作品に触れた読者の気分を味わいたいと思ったから。で、改めて感じたのは、この複雑な構成で連載していたってのはすごいなと。時間が行ったり来たりする感覚が、単行本よりも強烈に味わえる。これ、当時はみんなびっくりしたんじゃないかな。
名作と呼ばれている作品は、評価がある程度定まってるわけじゃん。だから、ついついそーゆーつもりで読んでしまう。でも、世に初めて発表されたときはどうだったんだろうか、ってのをよく思うわけよ。もちろん、完全に追体験はできないよ。できないけど、どんな感じだったか、そのドキドキを想像することはできる。つうことで、おじさんの俺が40年前の少女の気持ちになって『ポーの一族』を読んでみようと。当たり前だと思っている技法を初めて見るように味わったり、描かれるヨーロッパ文化を憧れの目で眺めたり、詩のようなセリフ回しを暗唱したり、ギムナジウムってなんだかステキね、なんつったりして。耽溺、っていってもいい。その、甘美で残酷なこと。
コマの構成もかなり大胆で複雑。ひとつのページの中に、回想場面と現在進行形の会話といったいくつものレイヤーが重ねられている。フキダシのセリフがあって、詩のような地の文がある。そして、それらのコマをまたぐように植物や髪の毛やリボンや風や波なんかの曲線が、するする伸びていく。この曲線がレイヤーをつなぎ、地続きの世界だということを示しているんじゃないかな。こうした技法はSF原画展の作品でもたくさん使われていたし、『ポーの一族』を初めて読んだという人がツイッターで「線がぶうわああって噴水みたいに出てる」と表現してた。そんな風に、じんちょうげにからみつく髪の毛のように流れる曲線が、過去から未来へそしてまた過去へとバンパネラの因果をつなげていくのだ。

そして、雑誌「フラワーズ」を入手して、ついに『ポーの一族』最新作を読んだのが5月末。リアルタイムで『ポーの一族』シリーズを読むという初めての体験ができたわけだ。過去の文献でちらちら目にしていたバンパネラが、時空を超えて俺らの前に現れたわけだ。ホントにいたんだ!
舞台は第二次大戦中のイギリス。戦争で両親と離ればなれになった少女が、「あたし今の世界中を怒っているの!」と言い放つ。この続きは1月発売「フラワーズ」に掲載されるらしい。俺らはバンパネラではないけれど、続き読むまでは死ねないな。

マンガの神様の表と裏 [レビュー]

今年は、手塚治虫の漫画家デビュー70周年だそうだ。だもんで、関連書籍がいろいろと出ている。中でも俺がシビれたのは手塚治虫の『手塚治虫表紙絵集』(玄光社)と「新潮」2016年12月号(新潮社)だ。手塚治虫といえば、何よりもストーリーの人だったわけだけど、この2冊は絵の魅力にスポットを当てているところが特徴。で、その絵の魅力的なこと!

『手塚治虫表紙絵集』は、文字通り手塚治虫自身が描いた表紙絵ばかりをずらずらーっと並べた本。まずは、その量に圧倒される。1200点以上だって。どうかしてるよ。
手塚治虫の大きな特徴が、多作だということ。これほどの作品数を誇るマンガ家は、もう出てこないんじゃないかと思うくらい。その尋常じゃない数の作品の表紙に咥え、生前に出た手塚治虫全集300巻の表紙もわざわざすべて描き下ろしんだって。知らなかったよ。手塚治虫は、単行本を増刷するたびに作品に手を入れることで有名だけど、版が変われば表紙もまた描き下ろすってことだ。さらに、マンガ以外の単行本や雑誌の表紙、レコードジャケットまで掲載されている。あとね、手塚作品のタイトルロゴが9ページに渡って、だーっと掲載されている。これも圧巻。いや、すごいことだよ。作品作るたびに、ロゴを発明しているわけだから。天才は全部やる。自分でやる。
掲載されている表紙の中でも、秋田書店の単行本は、俺の世代にはなじみ深い。『どろろ』『ザ・クレーター』『ブラック・ジャック』、ああ懐かしい。『ブラック・ジャック』なんて、印象に残ってる話は表紙の絵とセットで覚えてるからね。朝日ソノラマの『火の鳥』の表紙も印象深い。当時としては珍しかったでかい判型で、火の鳥の背景にはコンピュータを思わせる市松模様が配されている。子供の頃、この模様がなんだかカッコよく思えて、表紙をずらーっと並べて見比べたりしたのを覚えている。『ブッダ』の表紙も面白いね。ブッダのバストアップの肖像画になっていて、巻を重ねるごとに歳をとっていく。これって、ちょっとアニメーションっぽい発想。そんで、最終巻ではブッダが涅槃仏のように横になるのよ。トンチが効いてるなあ。
とまあ、自分が読んでた単行本の表紙にはそれぞれ思い入れがあるんだけど、俺が生まれる前の初期の作品もまた素晴らしいんだよ。ダイナミックな構図、洒落たデザイン、ちりばめられた遊び心と、アイディアがいっぱい詰め込まれている。この時期の手塚治虫は、様々な挑戦をくり返しマンガ表現の領域をぐいぐい広げていたわけで、表紙にも斬新なものや洗練されたものを作ろうという情熱がみなぎっている。端的に言って「わくわくする」のよ。今見てもそうなんだから、当時の子供たちはこれらの表紙にさぞ心を躍らせただろう。この中には今まで見たことのないものが描かれているんじゃないか。そう思いながらページをめくったかもしれない。のちに評価が定まり「全集」まで出るとは、そのときは思いもしない。ただ表紙を見てわくわくするだけだ。そんな風に手塚マンガに出会えたら、さぞ幸せだろうな。

表紙絵がマンガ本の入口、表の顔だとしたら、遺稿は裏の顔って言えるかもしれない。「手塚治虫のエロティカ」と題されて『新潮』12月号に掲載されている、手塚治虫の書斎の施錠されたロッカーから死後に発見されたエロティックな絵の数々がそれだ。
つっても、そこらの原稿用紙の裏に描き付けた、気ままな落書きのようでもあり、アイディアスケッチや習作のようでもあり。紙には折り目や破れ目がついていることからも、作品として発表するつもりはなかったことがうかがえる。にも関わらず、テープで補修されているってことは、それなりに大切にしていたんだろう。しかも、鍵のかかる場所に保管されていたことを思うと、手塚治虫の「秘かな愉しみ」の気配を濃厚に感じてしまう。そう、エロティカ。いわゆる「あぶな絵」ってヤツだ。
とはいうものの、直接的に性器や性交場面を描いているわけではない。そういう意味でのエロじゃないんだよね。ここいら辺が非常に面白いところなんだけど、描かれているのはほとんどが異形のものばかり。例えば、ネズミと女が合わさったような「ネズミ女」が出てくる。擬人化ってのともちょっと違って、そういう生き物って感じなのよ。あとは、動物に変身する女、もしくは女に変身する動物を描いたものが多い。化けるのは動物だけじゃない。火鉢や車、なんと団子にまで化ける。この奇怪さったらない。予想を超える変態っぷりだ。つうか、手塚治虫にとってのエロスは、まさに変態(メタモルフォーゼ)にあったんだなと、改めて確信する。
AからBへと変化する、その過程におけるAでもBでもない状態、変化の途中こそがエロい。手塚治虫のエロティカを見ていると、そんな風に思えてくる。これらの絵には、体が小刻みに震えているような効果線が加えられている。これはつまり、変化の過程であり動き続けていることを表しているわけで、そのなまめかしい尻や足の曲線とあいまって、どこかセックスを連想させたりもする。というか、セックス以上の快楽がメタモルフォーゼにはあるように思えてきちゃうわけよ。
んで、こうした欲望が、いかに手塚作品に溶け込んでいるか。例えば、『バンパイヤ』のどこか禁忌に触れるような怪しさ。あれはメタモルフォーゼの恍惚からきているんじゃないだろうか。他にも、『きりひと賛歌』『メルモちゃん』、今回の遺稿とダイレクトにつながる短編「グロテスクへの招待」など、挙げればきりがない。例えば、『火の鳥』のムーピーや奇怪な宇宙生物はどうだ? 『ブラック・ジャック』に登場する、体がサボテンになったり石になったりする奇病はどうだ?
メタモルフォーゼに憑かれた手塚治虫が、それを表現するのに最適なアニメーションに夢中になったというのもよくわかる。「マンガは正妻、アニメは愛人」なんてことも言っていたし。でも皮肉なことに、手塚作品はマンガに比べるとアニメーションは、いまいちメタモルフォーゼの喜びに欠けているんだよ。むしろ、手塚アニメーションを激しく批判してきた宮崎駿のほうに、メタモルフォーゼの快楽を感じる。宮崎駿が批判的だったのは、「物語のためにキャラクターを殺す」といった手塚治虫の物語至上主義的な側面。手塚治虫は、神の視点からすべてをコントロールするようなタイプの作家だったんだろう。でもというか、だからこそというか、一方で自在なメタモルフォーゼにおける「コントロールできなさ」にも、強く惹かれていたんだと思う。それこそ、愛人に溺れるように。
結局、アニメーションでは成功しなかったものの、マンガの中では手塚治虫がギチギチに練り上げた物語の拘束を振りほどくように、キャラクターたちはなまめかしく変身し始める。その、エロティックなこと。化け終わったら面白くない。ずっと過程を見ていたい。でも、マンガには終わりがある。ならば、変化の過程だけを描くことはできないのか。そんな風にして、これらの遺稿は描かれたんじゃないかと。

エンドレス・ボン [レビュー]

ちょっと前に出たマンガだけど、スケラッコという人が描いた『盆の国』がえらく素晴らしかった。お盆ということで、暑苦しくも熱烈にオススメしたい。もともとトーチというWEBサイトで連載してたマンガで、現在でも1話と2話が試し読みできる。WEBではパートカラーが使われていて、それがまたきれいなんだ。ちなみに、単行本はモノクロだけど、WEBだと醍醐味がイマイチ伝わらない大ゴマの魅力が存分に味わえる。ページ開いてどーん、ってのはこのマンガの楽しみのひとつだ。
ひょんなことから、8月15日が何度もループすることになっちゃって、お盆に帰ってきた死者たちが町にあふれ出すというお話。まず、永遠の夏休みならぬ永遠のお盆ってのがいいでしょ。エンドレス・ボンよ。しかも、この町盆地にあるっぽい。盆地は暑いっていうからね。二重の意味で「盆の国」なわけだ。それから、大小さまざまなお化けたちね。水木しげるの「妖怪ナイター」や宮崎駿の『千と千尋の神隠し』を思わせる、お化け大会。そして、お盆といえば盆踊り。その祝祭性。という感じで、俺のツボだらけな作品なのよ。
でっかい手でもってぐいっと引っ張られるようなダイナミックな展開も見事なんだけど、何よりも描写力がすごい。例えばね、死者は体が半分透けてるんだけど、その体の向こうに朝顔の鉢植えが見えたりする。そーゆーちょっとした、でも気の利いた場面がてんこ盛りなのよ。雨が降り始める瞬間とか、暑さで輪郭が溶けちゃうとか、奇妙な構造のお屋敷とか、上下逆さになった文字とか、懐中電灯の灯りとか、描写のアイディアが豊富で、それを見ているだけで楽しくって仕方がない。グッとくるコマを挙げていったらキリがないくらい。
例えば、線もいいよね。なめらかなアニメーションを思わせる曲線がとても魅力的。力を入れずにすーと引いたような線がお化けにぴったりだなあなんて思って読んでると、途中から筆で描いたようなかすれた線が混じってきてみるみる不穏な感じなっていく。他にも、死者となったおばさんが生きていた頃のことを語る場面。ひとコマだけそのおばさんの回想シーンが挿入されるんだけど、そのコマの枠線が細いんだよ。ふっとかき消えそうなささやかな思い出だということが、絵だけでわかる。終盤の、仰向けになってノートを開く場面もいいな。仰向けだからノートは陰になるわけで、そこにトーンが貼られている。夏の陽射しのコントラストの強さもさりげなく表現されていて、なんて繊細なんだと思う。あ、主人公の女の子が日焼けしていて、常にトーンが貼られているというのもいいね。要するに、線やコマやスクリーントーンの使い方にもちゃんと意味がある作りになってるわけよ。
クライマックスに近づくにつれて、様々な描線が入り混じりコマ割りもめまぐるしくなり、カオスな展開に。そして迎えるラストシーンは、生者と死者が入り混じった盆踊り。ここでの光の描写がまた素晴らしいんだ。提灯の灯りや花火の灯りに、うっとりさせられる。この祝祭を経て、時が正常に流れ出し描線やコマ割りも安定を取り戻すんだよ。ああ、ようやく死者を送ることができたんだな。でも、それは死者を忘れるということではなく、死者を意識しながら生者の時間を生きることなんだろう。主人公の少女は、夏から秋へ自分の足で踏み出す。「大丈夫 これから何でも出来ると思うで」という、死者からのメッセージを胸に抱いて。

土埃の中のもじもじ [レビュー]

アッバス・キアロスタミ監督の訃報を聞いたのは、今月のはじめ、歯医者の待合室でツイッターを眺めていたときのこと。7月4日にがんで亡くなったそうだ。享年76歳。
キアロスタミ作品で最初に観たのは『友だちのうちはどこ?』だった。主人公の男の子の今にも泣き出しそうな顔、アップダウンの多い坂にへばりついているような街、日暮れの心細さなど、忘れ難い作品だ。当時はイラン映画を観るのは初めてで、その素朴な魅力にやられちゃったわけだ。キアロスタミ作品の多くは、茶色や黄土色に彩られ、土埃が舞っていた。そして、坂道があり二階建ての家がある。それだけのことなのに、観ているとそれが愛おしく思えてくる。
でもその後、続編の『そして人生はつづく』『オリーブの林をぬけて』と観ていくにつれて、素朴な映画なんて言葉じゃくくれないってことに気づくことになる。実は、『そして人生はつづく』は『友だちのうちはどこ?』に出演した少年を探しにいくドキュメンタリーという体のフィクションだし、『オリーブの林をぬけて』は『そして人生はつづく』のワンシーンに登場した人物の撮影時のエピソードが描かれている。つまり、けっこう複雑なメタ構造になってるわけよ。
その他にも、監督の参与具合がなんともムズムズするドキュメンタリーや、車に乗り合わせた人のやりとりだけがひたすら描かれる作品など、作為と自然さの入り混じった映画をいくつも撮ってるし、最後の作品となった『ライク・サムワン・イン・ラブ』は日本が舞台でありながら俺らの土地勘を狂わすような映画になっている。要するに、素朴なんてのはとんでもない間違いで、実はポストモダン的というか、なんとももっともらしいウソをつく人なんだよ。
だけど、と逆接でつないでもう一度ひっくり返すんだけど、それでもキアロスタミ作品には人間の本質みたいなものが確かに描かれていた。キアロスタミ作品では、誰もがシャイな笑みを浮かべ、ちょっと困ったようなそぶりを見せ、どうすればいいのか決めかねるようにもじもじしている。茶色や黄土色の風景の中で繰り広げられる、この「もじもじ」こそが、俺にはとても人間的な営みに思えるんだよ。キアロスタミのもっともらしいウソは、この「もじもじ」を引き出すためにあるのかもしれない。
「もじもじ」はサスペンスを生む。カンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した『桜桃の味』は、自殺するかどうかというもじもじが描かれていた。いや、生死に関わる話じゃなくても、キアロスタミ映画はささやかだけど本人にとっては重要なサスペンスに満ちている。間に合うかな、会えるかな、こっち向くかな。そんなドキドキがあり、もじもじと逡巡する人々がいる。そのとき、イランで撮られた映画がとても近しく思えてくる。なぜなら、俺もまたもじもじ逡巡する者だからだ。
合掌。

緑の花束 [レビュー]

GWを振り返るシリーズ、ってわけじゃないけど、GWにはとても悲しい訃報もあった。ニュースが飛び込んできたのは5月2日だけど、マンガ家の吉野朔実さんが4月20日に病気で逝去、享年57歳だったそうだ。
吉野さんのマンガは『ジュリエットの卵』から、リアルタイムで読んできた。俺の一押しの吉野朔実作品は、『ぼくだけが知っている』。小学生の日常のディテールに記憶を刺激され、あの頃の喜びと不安が蘇ってくる。あと、短篇シリーズ『いたいけな瞳』も切れ味抜群でいいよね。『恋愛的瞬間』は、俺にとってすごく大切なセリフがある作品。短篇作品では、「眠れる森」「カプートの別荘へおいで」なんかも好きだし、本に関する着眼点がユニークなエッセイマンガもよかった。で、去年は、中断が続いていた『period』が完結したんだよな。これからどんなマンガを描くか楽しみだったんだけど、50代の訃報とは…。ショックだ。

吉野朔実さんの絵で、真っ先にイメージするのは草だ。吉野さんの描く細く尖った草は、うっかり握ると手を切りそうなほど鋭い。これが吉野作品の怖さだ。吉野さんは画面に植物を登場させることが多いんだけど、あふれる花や木や草などの中に、刃物が隠れてる。
刃物を連想するのは、不可解な人間心理を解剖するような吉野さんのシャープなタッチのせいでもある。その甘くなさに、俺は惹かれていた。恋愛を描いても、家族を描いても、「人はわかり合えないんじゃないか」という厳しさがあるんだよね。でもそれは、世界の残酷さを浮き彫りにすると同時に、そんな世界に向き合う勇気もくれる。
草の絵の中でも、吉野朔実の署名のようにくり返し描かれているのが、草越しのローアングルの構図だ。その向こうでは、登場人物たちがどこかへ足を踏み出そうとしている。代表作『少年は荒野をめざす』を思い出そう。吉野作品では、少年も少女も大人たちも残酷な世界に立ち向かい、草に足を切りつけられながら荒野を目指すのだ。

死後に「フラワーズ」という少女マンガ誌に掲載された吉野朔実の最新短篇を読んだ。タイトルは「いつか緑の花束に」。「緑の花束」って、吉野朔実作品を象徴するような言葉だと思う。あの草は刃物であると同時に、俺らへの花束でもあったのだと思っている。
そんな緑の花束に感謝を込めて、ご冥福を祈ります。

リズムとエコーの贈り物 [レビュー]

今さらだけど、ゴールデンウィークを振り返るシリーズ。5月4日は、「GIFT」ってライブイベントに行ってきた。会場は新宿LOFTで、出演はキセルとKODAMA AND DUB STATION BAND。どちらもすんごいよかった。
混み具合もちょうどいい感じだったし、開演前にバーカウンターのあたりをキセルのお兄ちゃんがウロウロしてたり、全体的にゆるい感じがいい。クラブイベント系のライブのほうが、なにかと気楽でいいよな。確か、キセルが東京で最初にライブをやったのが、このロフトだったと思う。こだまさんも、ロフトの思い出をあれこれ語ってたり、まあそういう場所なわけだ。

キセル
ドラムの北山ゆう子を加えた三人編成。二人のキセル、キーボードを加えた四人のキセルは観たことあるけど、3ピースは初めて。これが意外にも、べらぼうによかったのだ。今までのライブで一番好きな編成かも。実はキセルって、リズムが肝だと俺は思ってるのよ。その意味で、この編成はリズムのエッジが立ってて、グッともっていかれた。1曲目は「時をはなれて」。ゆっくり夜に漕ぎ出す感じが、ライブの始まりに合ってるな。5月ってことで「町医者」もやってたし、「エノラ・ゲイ」もやってた。きな臭い昨今、ますますリアルな歌に聞こえてくるな。「ピクニック」「柔らかな丘」「ギンヤンマ」といったおなじみの曲も、意外なアレンジになってて素晴らしかった。しかし、♩お墓でランチを食べながら~とか♩ギンヤンマはばたく悪魔のようだよ~というところで、涙が出てしまうのは何でなんだろう。泣くような詞じゃないのに…。声かなあ。あと、ゆらゆら帝国の「ひとりぼっちの人工衛星」をカバーしてて、これがまたすんごくすんごくよかった。去年出したカバーアルバムに収録してるってんで買って帰ろうと思ったら、売り切れでがっかり。「またプレスするとは思うんですが…」って物販の人が曖昧な感じで言ってた。あと、あの兄弟、同じタオルで汗とか拭けちゃうんだね。最後の曲は「春」。これも声だよなあ、やっぱ。

KODAMA AND THE DUB STATION BAND
こだま和文のバンド。ひたすらカッコよく、エコーの波にもっていかれそうになる。酒のせいもあるけど、もうね、トロトロ。こだまさんのトランペットが奏でる物悲しいメロディー。そこに凛とした孤独のようなものを感じてグッときてしまう。チェルノブイリ原発事故のあとで作った「Kiyev No Sora」も演奏していた。森にこだまする鳥の声のように、音が空気を震わせる。この曲、ずーっと演奏し続けているそうだ。それって大事だよね。原発問題は80年代から解決していないわけで、だから演奏を続けるんだよ。その意志にやられてしまう。キセルが「エノラ・ゲイ」をずーっと演奏し続けてるってのもそういうことかもしれない。あと、「朝日のあたる家」のカバーの揺れっぷりも最高だった。ああ、ブルースだなあ。ダブもロックもブルースだ。ホント、悲しいことばっかりだ。悲しいから音楽を奏でるんだよ。そして、何よりこだまさんのたたずまいだ。杖を手に、うつむきき加減に立つこだまさんに、遠くを見ているような静けさと、戦場を生き延びてきたような凄みを感じる。なんておっさんだよ、もお。カッコよすぎる。アンコールではなんとじゃがたらの「もうがまんできない」を歌ってた。これはびっくり。♩ちょっとの搾取ならがまんできる~。30年くらい前の歌だけど、今なお、つうかこれまた今のほうがリアルに聞こえる。

キセルもこだま和文も、今なお音楽をやっているだけじゃなくて、今奏でるべき音を奏でている。ロフトという場所、イベントの雰囲気、バンドの組み合わせ、それらがあいまって独特の空間になっていた。地に足をつけたまま別世界にもってかれる感じ。そんなゴールデンウィークのギフトを、存分に堪能した。

震災後の長い夢 [レビュー]

ゴールデンウィーク中の出来事をゴールデンウィークが終わってから思い出しつつ書いてみるシリーズ。すげー映画を観ちゃったのだ。篠崎誠監督の『SHARING』。今週の金曜日までの上映っていうギリギリのタイミングで書くのもどうかと思うんだけど、今のところソフト化の予定もないらしいので、未見の人はぜひとも急いで観に行って欲しい。
ちなみにこの『SHARING』、111分版と編集の異なる99分版(アナザーバージョン)があるそうだ。俺が観てきたのは、通常版の111分の方。「アナザーバージョン」は観ていないので比較ができないんだけど、111分版、堪能しました。傑作。
「大地震の予知夢を見た」と震災後に語る人たちについて調査している社会心理学者の瑛子、卒業公演で「震災を演劇にする役者たち」を描いた演劇を行なおうとしている学生の薫。ここで言うところの「震災」は、2011年3月11日の東日本大震災なんだけど、その震災後の時間を生きる二人の女性が立教大学を舞台に描かれている。
このざっとした説明だけでも、けっこうややこしい構造を持っていることがわかると思う。震災の夢を見たという記憶が震災後に現れる。本物の記憶と模造記憶、現実と夢やお芝居がくるりと反転するような場面が何度も出てくる。ある場面では時間軸も反転し、今が震災前なのか震災後なのかがわからなくなったりする。まるで、ずーっと夢を見つづけているようだ。頼れるものがどこにもない、迷子の気分。
迷子感覚は、舞台となる立教大学が迷路のように撮られているところにも現れている。薄暗い廊下や階段、ガラス張りの吹き抜け、がらんとしたテラス…。人影を追いかけて回廊をぐるぐる回っているうちにどこにいるかわからなくなり、草の生えた地面に寝転んでいるのかと思えば屋上めいた場所だったりする。この場面は、クラっときた。足元の地面を信用できない感じ。
足元の地面を信用できないのもそのはず。彼らは、というか俺らもだけど、震災後の世界に生きているからだ。東日本大震災のあと、被災というほどの体験をしていないにも関わらず、夢を見ているような現実感のない日々がしばらく続いた。そんな、現実は意外に脆くいつ日常が崩壊してもおかしくない、というあの日以降の感覚が、この『SHARING』では、「終わらない夢」として描かれているんだよ。しかも、ただの夢じゃなくて、不穏な悪夢として。
『SHARING』が面白いのは、けれん味あふれるホラーの手法で撮られていること。最初のシーンからして、これ見よがしな風の音や宙をさまよう交わらない視線が、いきなり不穏。そのあとの廊下の長回しは、パンするたびに人が消えたり現れたりして、さらに不穏。そのあとも、ガラス越しにこちらを眺める人影があったりして、これまた不穏。幽霊はこの世から去ってしまった親しき者として、ドッペルゲンガーは増殖する他者として、キャンパス内をうろつき回る。
不穏な空気、異様な緊張感がずーっと続くだけじゃなくて、きっちり怖がらせてくれる。俺は、確か3回、びっくりしてビクッと体をのけぞらせた。このビクってな体の反応は、夢を見ていて目が覚めるときの感じに似ている。主人公の瑛子も、そんな風にビクッとして悪夢から目覚めていたっけ。でも、夢から覚めてもまた夢、というのがこの映画の構造だ。
冒頭で、瑛子の取材を受けている女の子が震災がなかったかのように振る舞う日本の状況への違和感を語る場面がある。そうなのだ。俺らは、2011年に現実の脆さを知ったはずだった。なのに、それを忘れたふりして暮らしている。『SHARING』の終わらない悪夢は、あの日から何も解決していないし、震災以降の夢は続いていることを思い出させるんだよ。なかったことにしようとしても無駄だ。そいつはドッペルゲンガーとなって帰ってくるぞ、と。
2011年の3月11日以前に何度も立ち戻って考え直すこと。終わらない悪夢をシェアすること。片目で涙を流し片目で怒りをぶつけること。それがどういう意味を持つのか、軽々に結論づけることはできないけど、悪夢から覚めるにはまず夢を見ているって気づかなくちゃね。瑛子がそうしたように、カーテンを開いて窓の外に目を凝らすのだ。

以下、メモ。
●劇中劇の場面、最初は芝居の場面だと気づかないんだけど、他の場面と微妙にセリフ回しが違っていてそれが微妙な違和感になっている。こーゆーところ、ニクいなあ。
●役者陣は、瑛子役の山田キヌヲも薫役の樋井明日香もよかったけど、あとは演劇学科の教師役の兵藤公美っていう女優さんが印象に残ってる。なんか、じんわり怖いんだよな。
●ドッペルゲンガーにしてはあまりに当たり前のように、おんなじ顔した少女が出てくる場面がある。「どゆこと?」と思ってたら、エンドクレジットで謎が解けた。双子じゃんか。
●映画の上映のあとに、篠崎誠監督と黒沢清監督のトークセッションがあった。黒沢監督は、嬉しそうに「『シェアリング』って『シャイニング』みたいだよな。双子も出てくるし」と語ってた。
●それにしても、黒沢監督、幽霊好きだなあ。『SHARING』の登場人物の誰も彼もが幽霊に見えるらしい。
●黒沢監督がこんなことも言っていた。「映画って、本来こーゆー感じのものだよね。ハードなテーマや社会問題が、娯楽の中に当たり前のように溶け込んでいる」とかなんとか。これは、深く納得。無理に娯楽と社会性を分けなくてもいいよね。
●上映後のトークで、篠崎誠監督が九州で地震があったときのことを語っていて、なんだかまだ映画が続いてるような感覚になった。地震と原発がある限り、この夢は終わらない。
●そう、原発ね。脱原発デモの場面も出てくるけど、この映画の息詰まるような感じは、原発がある社会で生きる息苦しさでもある。
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